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お知らせ

2025年3月18日(火)

札幌文化芸術劇場 hitaru

「シネマシリーズ-8 映画へと導く映画〈横浜聡子監督〉」講演会ダイジェスト映像&レポート公開!

2025年1月25日(土)開催の「シネマシリーズ-8 映画へと導く映画〈横浜聡子監督〉」にて実施しました横浜監督による特別講演につきまして、講演の模様をダイジェストでご覧いただける映像とレポート記事を公開いたしました。

イベントを振り返りながら、次の映画へと出会う旅を引き続きお楽しみください。

イベントのアーカイブページはこちらから:
https://www.sapporo-community-plaza.jp/archive.php?num=4284


■ダイジェスト映像





■イベントレポート

札幌文化芸術劇場 hitaru が、今最も注目する映画監督を迎え、監督自身が選んだ2作品の上映と特別講演を行う「シネマシリーズ8 映画へと導く映画」が、2025125日に開催されました。

通算8回目となる今回の「映画へと導く映画」では、2025年夏に最新作『海辺へ行く道』の公開を控えた横浜聡子監督をゲストに迎え、イベントが実施されました。本記事では、その一部をレポートします。

今回お招きした横浜聡子監督は、大学卒業後に一般企業へ就職したのち、映画美学校に入学。卒業制作として手がけた『ジャーマン+雨』(2007年)で、日本映画監督協会新人賞(2007年度)を受賞しました。2009年には商業映画デビュー作となる『ウルトラミラクルラブストーリー』を発表。その後も『俳優 亀岡拓次』(2016年)や『いとみち』(2021年)を手がけるなど、精力的に作品を制作し続けています。また、テレビドラマの分野でも活躍し、『有村架純の撮休』(2020年)、『季節のない街』(2023年)などの演出を担当するなど、幅広い分野で活動をしています。

横浜監督が本イベントのために選んだ2作品は、ロベルト・ロッセリーニ監督の『ドイツ零年』(1948年)と、羽仁進監督の『彼女と彼』(1963年)でした。

ロベルト・ロッセリーニ(1906–1977)はイタリアの映画監督で、1940年代半ばから1950年代初頭のイタリアで発展した映画運動「ネオリアリズモ」を代表する人物の一人です。ネオリアリズモの作品は、現実社会の厳しさをリアルに描くことを目指し、非職業俳優の起用、ロケ撮影、自然光の使用、貧困や戦後の混乱をテーマとするストーリーを特徴としています。ロッセリーニの代表作として『無防備都市』(1945年)や『神の道化師、フランチェスコ』(1950年)があります。今回上映された『ドイツ零年』は、第二次世界大戦直後のベルリンの都市を舞台に、13歳の少年エドムンド(エドモンド・ムシュケ)を主人公とした作品です。

羽仁進(1928-)は、日本の記録映画の先駆者の一人であり、リアリズムに根差した映画づくりで、ドキュメンタリー映画・劇映画にわたり多くの作品を手がけてきた監督です。1949年に岩波映画製作所の設立に参加し、代表作には、教育映画として制作された『教室の子供たち』(1955年)や『絵を描く子どもたち』(1956年)、劇映画デビュー作の『不良少年』(1961年)などがあります。また、アフリカの動物を追ったテレビ番組や映画も多数制作しています。今回上映された『彼女と彼』(1963年)は、左幸子と岡田英次が演じる東京の郊外に暮らす夫婦と、バタヤ部落に暮らす山下菊二が演じる伊古奈との奇妙な交流を描いた映画です。

イベントでは、まず『ドイツ零年』、続いて『彼女と彼』の上映が行われ、その後に横浜監督のトークが実施されました。トークの冒頭で横浜監督は、これらの作品を選んだ理由について、初めて観た際に強い衝撃を受けたこと、さらに、自身が撮影に入る前に必ず見返し、思わず真似をしたくなるシーンや演出が多数含まれている作品であることを明かしました。

横浜監督のトークは、『ドイツ零年』から始まりました。3つのシーンがピックアップされ、抜粋映像が上映された後、それぞれのシーンについて横浜監督が自身の視点から考察を加えました。

1つ目の映像は、映画序盤にある、少年のエドモンドと彼の父・姉・兄が自宅で勢揃いするシーンです。このシーンでは、複数のカットを組みあわせて、ベッドに横たわる父を除いた人物たちの部屋での移動がカメラで捉えられています。横浜監督が注目したのは、カメラが人物を捉える適切な「サイズ」でした。横浜監督は、カメラが人物に対して近くもなく遠くもなく、また人物の動きにあわせて、「絶妙な距離感」で人物を捉えていると言います。本作には、経験豊富なプロの俳優ではなく、演技経験が少ない、あるいはほぼない素人俳優たちが多く出演しています。しかし、このシーンを観ると、プロか素人かという違いはもはや問題ではなく、才能ある監督のもとでは、優れた演技や動きを生み出し、それをカメラに収めることができる——そう感じたと、横浜監督は語ります。スムーズに物事が進展する何気ないシーンであるにもかかわらず、技術的にとても高度なことが行われており、なかなか簡単にできるものではないとも横浜監督は述べました。

2つ目の映像は、少年のエドモンドが、父親に劇薬を入れた飲み物を飲ませて殺してしまう、作品の中でも衝撃的なシーンです。横浜監督は、このシーンの「反ドラマ性」に着目します。本来ならば、息子が父親を毒殺するという場面ですから、この場面を劇的なもの=ドラマチックなものにしようと思えば、いくらでもできる。しかし、ロッセリーニはそのようなことは決してしない。横浜監督は、もし自分がこのシーンを演出するとしたら、例えば、薬を入れようとしているところを姉に見つかりそうになり、エドモンドが怯える演出や、劇薬を飲み物に入れる際に部屋にある家族写真を彼に見つめさ、何か感じ入る様子を描くような演出、あるいは、その家族写真を使って、殺そうとしている父と過去の幸せだった家族の姿を対比させるといった演出など、さまざまな可能性が考えられると言います。ですが、ロッセリーニはそのようなドラマチックな演出をせず、淡々とこのシーンを作り上げている。この点に、目の前の状況をそのまま捉えるというロッセリーニの独特の姿勢が現れているというのです。横浜監督は、羽仁進がロッセリーニについて述べた「彼は神のごとく映画を組み立てる全能者ではなく、報道写真家のようにカメラで現実を捉えようとする眼そのものであった」という言葉を引用しながら、ロッセリーニは目の前の風景や生身の人間の姿を決して誇張したり捻じ曲げたりするのではなく、すべてを平等に見つめる姿勢を持っていたのだと語りました。

3つ目の映像は、映画のラストで少年エドモンドが廃墟を彷徨うシーンです。最終的にエドモンドは投身自殺をし、この映画は終わるのですが、そこに至るまでの「これはいったいどこへ向かうのだろう」という無目的な彷徨を横浜監督はとりあげました。それまで大人であることを強いられていたエドモンドが、家を出る瞬間にすべての責務を放棄し、初めて子どもとしての自分に戻る。そして、10分近くの長い時間、一人で夢中になって遊びまくることで、ようやく子どもとしての自分の姿を表現できる——このシーンが横浜監督は大好きだと語ります。エドモンドが遊んでいる子どもたちを見る仕草や、ジャケットについた汚れを払う動作など、映画の細かなディテールの魅力も指摘されました。そして、エドモンドは自ら身を投げる直前まで、実は死のうとは思っていなかったのではないか、家から運び出される父親の棺を偶然目にしてしまったことで、死を決意したのではないか——横浜監督は映画の悲劇的な結末について、そう分析しました。『ドイツ零年』のラストのような無目的な物語から外れた時間を、自作でも取り入れたいという考えが常にあることも語られました。

続いて、『彼女と彼』に話題は移りました。 横浜監督がまず本作で注目したのは、映画冒頭のシーンで、左幸子と岡田英次がバタヤ部落で発生した火事を、自分たちの暮らすアパートから目撃する場面でした。この冒頭の場面について、横浜監督は通常の映画における時間の概念が覆されるような、不思議な感覚を覚えると言います。映画は、本来、一つ一つのカットをつなぎあわせてシーンを構築する芸術ですが、そもそも各カットは独立した映像の断片であり、それらを編集によってつなげることで、人物のアクションや時空間の流れを作り出すのが一般的です。しかし、羽仁進の映画では、一つ一つのカットのつながりが、そこまで厳密に意識されていないと横浜監督は指摘します。具体的に言えば、カットを注意深く見てみると、人物の動きに整合性がなかったり、人物が前のカットとはまったく異なる場所にいたり、時間が大胆に飛んでいることがあるのです。横浜監督は、この冒頭のシーンについて、異なる時間の流れを生み出そうとしているのではないかと分析しました。

さらに、音響=サウンド・デザインについても言及されました。 一つ一つのカットがつながっていなくても、観客が映画をスムーズに受け入れられるのは、音響が大きな役割を果たしているからです。どういうことでしょうか。この映画冒頭の火事を目撃するシーンでは、「ビュービュー」と風が空気を切り裂くような音が終始鳴り続けています。 映像=カットは厳密にはつながっていませんが、音響は一貫して同じ風の音が流れているため、その音によって一つの時空間のまとまりが作られ、観客は映画を自然に受け取ることができる。横浜監督は、火事の目撃シーンでありながら、終始風の音が鳴っているというサウンド・デザインの繊細さと大胆さに驚かされたと述べたうえで、この冒頭のシーンが惹起する不思議な感覚は、左幸子が演じる直子の無意識の世界を具現化したような場面になっているからではないかとも考察しました。 

火事の目撃シーンという枠を超え、カットとカットがせめぎあうようにつながれ、映像と音響がぶつかり合って生まれる、ゴツゴツとした生々しい手触りが、映画の冒頭から観客に突きつけられる——横浜監督はそう語ります。映像と音響を滑らかに繋ぐのではなく、あえて違和感を生じさせるように編集する。この挑戦的な手法について、羽仁進監督の作品から多くを学び、自身の映画制作においても参考にすることが多いと述べました。また、『彼女と彼』は「大人と子ども」や「男性と女性」などの「境界線」を描く映画であると同時に、そうした境界が容易に越えられていく映画でもあると言います。横浜監督自身も、映画を通じて、社会で常識とされる「境界線」を一旦取り外し、いかに世界を平等な視点で見つめられるかを探求していると語りました。本イベントの企画制作およびトークの聞き手を務めた小野氏からは、『彼女と彼』について、「何か決定的な出来事が提示されるわけではないにもかかわらず、なぜ直子は伊古奈やバタヤ部落に惹かれたのか?」という質問が投げかけられました。これに対し横浜監督は、「物質的に満たされた生活を送る直子にとって、伊古奈やバタヤ部落は自分の思い通りにならない存在であり、だからこそ惹かれたのではないか」と答えました。

横浜監督のトークが終わると、観客との質疑応答の時間となりました。ここでは紙幅の都合で割愛しますが、大変充実したQAとなったことを記しておきます。

まず、映画監督が選んだ作品を鑑賞し、その後、監督の言葉に耳を傾ける——この二重の体験がもたらしたのは、映画との深い対話でした。本イベント「映画へと導く映画」は、作品を鑑賞し、その余韻の中で創り手の思考を辿る貴重な機会となりました。しかし、それだけでは終わりません。この体験を通じて、横浜監督の作品を新たな視点で捉える機会も生まれるでしょう。映画は一度きりの体験ではなく、見るたびに新たな発見をもたらします。本イベントが、映画との尽きることのない対話の場であったことを報告します。(文=堅田諒)