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お知らせ

2021年12月11日(土)

札幌文化芸術交流センター SCARTS

「遠い誰か、ことのありか」展 アーティスト × 研究者 リモートトーク/クワクボリョウタ × 渡邊淳司

「遠い誰か、ことのありか」展 アーティスト × 研究者 リモートトーク/クワクボリョウタ × 渡邊淳司イメージ1枚目

アーティスト × 研究者 リモートトーク Zoom画面、2021年9月11日

「遠い誰か、ことのありか」展 アーティスト × 研究者 リモートトーク/クワクボリョウタ × 渡邊淳司イメージ2枚目

《おしくら問答》クワクボリョウタ × 渡邊淳司、2021年、撮影:リョウイチ・カワジリ

「遠い誰か、ことのありか」展 アーティスト × 研究者 リモートトーク/クワクボリョウタ × 渡邊淳司イメージ3枚目

《じぶんたぶんにぶんふかぶん》クワクボリョウタ、2021年、撮影:リョウイチ・カワジリ

「遠い誰か、ことのありか」展 アーティスト × 研究者 リモートトーク/クワクボリョウタ × 渡邊淳司イメージ4枚目

(参考画像)《LOST#16》クワクボリョウタ、2017年、撮影:小牧寿里、提供:札幌国際芸術祭実行委員会

「遠い誰か、ことのありか」展 アーティスト × 研究者 リモートトーク  
実施:2021年9月11日(土)17:00〜18:00 (YouTube Live 配信)
出演:クワクボリョウタ(アーティスト)
   渡邊淳司(NTTコミュニケーション科学基礎研究所 人間情報研究部 上席特別研究員)
モデレーター:樋泉綾子(札幌文化芸術交流センター SCARTS キュレーター)

展覧会「遠い誰か、ことのありか」では、アーティストのクワクボリョウタ氏と研究者の渡邊淳司氏のコラボレーションによる作品制作を依頼しました。お二人はコロナ禍でのコミュニケーションをめぐるモヤモヤや気づきについて対話を重ね、その対話は《おしくら問答》という作品に結実しました。人と人とのコミュニケーションを、言葉や情報のやりとりではなく「押しつ押されつ」という触覚的な観点で捉え直した作品です。
本トークイベントは、お二人の「対話」の最終回!完成作品を紹介するとともに、制作過程を振り返ります。作品制作の過程で築いた関係性、お二人の「問答」をお届けします。
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ゴールを決めないふたりの「問答」

樋泉綾子(以下、樋泉):配信をご覧になっている皆さん、こんにちは。ただいまより「遠い誰か、ことのありか」展の関連イベントとして、アーティストのクワクボリョウタさんと、触覚の研究者である渡邊淳司さんとのトークを始めます。クワクボさん、渡邊さん、よろしくお願いいたします。

クワクボリョウタ(以下、クワクボ)&渡邊淳司(以下、渡邊):よろしくお願いします。

樋泉:コロナ禍により、人と人とが直接会うことを極力避けるように求められるようになって、ずいぶん長い時間が経ちます。今もまさにそうですが、テクノロジーを使った遠隔でのコミュニケーションが日常化し、便利だったり、効率がよかったりと、ポジティブな面もたくさんあると思います。一方で、人と人とが直接会う時の、相手の何気ない身振りやため息など、「生身の人」がそこにいるという感覚が、人と人とのコミュニケーションにおいてどういう意味を持ち、どんな良さがあったのか、改めて気づかされる機会になっているとも感じます。
こうした状況を背景に、「遠い誰か、ことのありか」展では、テクノロジーを批評的に扱うアーティストに出品を依頼し、作品を通して、人と人、人とそれ以外の生きものや情報、広い意味での「他者」との関わりについてあらためて考えること、関わりの場をつくっていくことを目指しました。

クワクボさんは、札幌国際芸術祭や札幌芸術の森美術館での「ドラえもん展」に出展されていたので、札幌でも作品を実際にご覧になった方は多いと思います。今回は、遠隔でのコミュニケーションが日常化した中で、あえて「触覚」をテーマに2つの新しい作品を制作されました。

そのうちのひとつが、触覚のメカニズムやコミュニケーションをご専門とされる渡邊淳司さんとの言わば「共作」です。

お二人には、展覧会の準備期間中6回に渡り、おそらく10時間近く、おしゃべりを重ねていただきました。今日はお二人の対話の7回目ですね。まずはお二人の対話を通して完成した作品《おしくら問答》の映像をご覧いただきましょう。

以下、SCARTSとSIAFラボの連携プログラム「Backstage Pass to SCARTS / ONLINE」[9/4(土)開催]の記録映像内での会話
参考映像 AES / Backstage Pass to SCARTS / ONLINE 【ダイジェスト版】 外部リンク
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クワクボ:(作品を触りながら)これを押すと押し返してくる、感触を体験する作品になります。タイトルにもあるように、人と人のコミュニケーションを、通信ではなく、押し合うという、触覚で捉えるものです。リモートでは「情報」が行ったり来たりしますが、我々が普段実際にしているのは、押したり押されたりして「境界線」が行ったり来たりすることですよね。何か「情報」を共有してそれに賛成する、反対するということとは違う軸で、「触覚」という感覚を頼りにします。展示会場には、3つ装置があり、それぞれ「性格」が違います。
「性格」というのは、押した時にどうやって押し返してくるかということで、しばらくすると関係性が変わってきます。それぞれが「違う」性格になっているということです。
例えば、これ(3つの装置の内のひとつ)はちょっと押すと押し返してくるんですが、しばらく時間が経つとだんだん柔らかくなってきます。

出演者:(作品を押しながら)緩やかな均衡を感じています。あ、今は喧嘩してます。こっちは従順ですね。

クワクボ:従順に返すんですが、防衛ラインがあったり、じわっと譲歩している感じがあったり。

出演者:実在している誰かの性格を参考にしているんですか?

クワクボ:直接は違いますが、渡邊さんから「ビッグファイブ」という性格の分析方法を教えていただきました。それをモデル化してシミュレーションしたわけではないんですが、僕が架空のエピソードや人物像を描きつつ、こういう関係があるなと設定しました。
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クワクボ:今の映像にもありましたが、《おしくら問答》は、送り手が何か情報を発信して、受け手がまた情報を送り返すという「会話」とはちょっと違う構図で、常に「押しつ押されつ」という双方向の関係があることを基本に考えた作品です。会場では、それぞれ違う性格、挙動を持った3種類の装置に触ることができます。

樋泉:展覧会の準備期間中、コロナ禍のため渡邊さんとクワクボさんはずっとオンラインでお話を重ねてきました。会場で作品に直接触れていただくこともまだ叶わないのですが、渡邊さん、映像で作品をご覧になってみていかがですか。

渡邊:制作のプロセスの中でクワクボさんと長時間お話をするということが、最初はすごく緊張したんですよ。クワクボさんとは15年ぐらい前から面識はあったんですが、どんな道筋ができるんだろうと不安で、前が見えない状態から始まりました。とりあえず1回しゃべってみましょうって、まずちょっと2人で歩いてみたって感じの始まりでしたね。
道を一緒に歩いてみると、思ったより、歩幅が合うかもしれないと感じました。クワクボさんが話してくださったことに自分が返すと、また違った方向に話が転がっていく感触というか、クワクボさんの輪郭、肌触りみたいなものが、だんだん回を重ねていくうちに僕の中で身体化されていったようなところがあって。実際に作品には触れていないですが、作品というかたちになって、プロセスも含めて、すごく良い時間だったなぁと僕は思っています。ありがとうございます。

クワクボ:さきほど紹介があった「ドラえもん展」や札幌国際芸術祭で展示した作品は、鉄道模型を使ったインスタレーションなんですが、こういうタイプの作品の制作は、ほぼ僕一人だけの世界になるんですね(参考画像参照)。暗い部屋の中に光をひとつだけ灯して、物を置いたりする作業です。僕が他の人を締め出して一人で黙々と作業する感じになるので、「この作品ってどういうことなんですか」と聞かれた時に、僕がすべて引き受けて話すような関係性になりがちで、「作家ありき」の構図になるんです。
でも今回は「モヤモヤ悩み相談」みたいな感じで、そうした「作家像」のようなものではなく、僕のダメダメな、不完全なところを渡邊さんに聞いてもらう、というやり方で進めました。僕はもともと「完全無欠の作家」というキャラではないんですが、アーティストってどうしても社会的にそういう姿が求められてしまうところがあるんです。でも僕のそういう不完全さは他の人に共感してもらえるところもあると思うので、今回は本当に「クランケ(=患者)」というか、「弱いアーティスト」みたいな感じでやれてよかったです。

渡邊:僕としては、完全無欠ではなく、クワクボさんが「弱さ」だとおっしゃる「凹み」の部分にスルっと入っていけた感じがすごくあって、対話の中で僕自身も「そんなこと考えていたんだなぁ」と気づくこともありました。クワクボさんと僕の間で、まさに押したり引いたりをお互いに繰り返していたような気がします。

クワクボ:作品のアイデア会議でもありつつ、「対話」と「作品」がほぼ同じものとして成立しているというのはすごく面白いなと思います。

渡邊:ゴール地点が決まっていない感じでしゃべってるんですよね。アイデアを出そうということで始まりながらも、寄り道をいっぱいしているんですが、最終的には何らかのものが立ち上がってきたというのがすごいなぁと。
かたちのないもの、例えば自分の「幸せ」とかもそうかもしれないですが、それを目指そうとすると、そのためのだけの存在になってしまって、そこから引き出されるものがあまりないような気がするんです。ゴールを決めて最短距離を走ろうとすると、それ以外のものが見えなくなってしまうし、その道から外れることが悪いことのように思えてしまいます。そういう意味では、「作品のアイデアをつくろう」ということではなくて、「ちょっと話を聞いてくださいよ」というところから入る感じは、創造的なことをうまく一緒にやる方法論にも通じるのかなと思いました。

クワクボ:対話の中で、リモート会議やある目的を持った対話の中では、何かが不足してしまうという話がありましたが、今回については、対話自体がズバッと最短距離で目的を達成するというものではなかったので、昔でいう「長電話」みたいな感じがありました。リモート会議なのに、目的がよくわからないまま、でもあるところにはたどり着いた、という感じで、非常に面白くて、こういう感じにもできるんだなと思いました。

樋泉:最初の対話の時に「リモートだと雑談ができない、なんとなく集まるってことがしにくい」という話がありましたよね。それが今回は実現できたということでしょうか。

クワクボ:今回は、その後に何も残らずに終わってしまう雑談とも少し違うんですよね。Zoomで対話した後、書き起こしを読み返したということが大きかったかな。

渡邊:実際、樋泉さんが僕らの対話の間にいらっしゃって、僕らも結局は雑談してるだけでは何もアウトプットがない、という状況をどこかで意識しつつも、自由を与えてもらっている感じがしました。書き起こしていただいたものを自分でも振り返りつつ、また自由に歩いて、みたいなことを割と短期間で繰り返したのは、すごく良いやり方かもしれないと思いました。そしてそれは、どこでも接続できるリモート会議だったからできたのかもしれません。

クワクボ:確かに書き起こしを読むと、だんだん「ひょっとして...」みたいな感じでコンテキストができていって。Zoom飲みなんかも意外と書き起こしをしたら面白いかも。

渡邊:やっぱり、毎回毎回がリセットになってなかったんですよね。前回の対話の書き起こしを読んで、「今日は何を話しましょうね」とか言いながらも、書き起こしを読むことでインプットされているものがあるので、その文脈を引きずりつつ、勝手に話が出てくるような状況だったと思います。


対話から見えてきた作品の輪郭

樋泉:作品のアイデアが大きくふくらんだのは、ゲームの「スプラトゥーン」の話題の中でした。クワクボさんが「ネット上の対戦相手のことは直接知らないので、プレイ中にどういう行動をする人なのかということでしかその人のことを知ることができない」とおっしゃって、その時に渡邊さんが、「人間のパーソナリティは『形容詞』じゃなくて『副詞』だよね」ということを話されたんです。それは今回の作品につながったキーワードだったかなと思います。

クワクボ:「副詞」という言葉、それから「加速度」という言葉が出て、さらにアニメーションの「イージング」というテクニックの話になり、そのあたりからだんだん作品の輪郭が出てきました。

渡邊:「優しい人」というよりは「優しく触れてくれる人」と言う方が、その人の輪郭を身体感覚として感じられるし、「その人らしさ」を表せますよね、という話から、それがアニメーションでモノの動きを「キュッ」とさせたり「ギュッ」っとさせたりする「イージング」に通じる、という話になりました。「加速度」や「動き」というものが「人とどう関わるか」という僕らの「パーソナリティ」みたいなものと実はつながるんじゃないかという話に発展し、ちょっと視界が変わった瞬間だったと思います。

樋泉:《おしくら問答》は、こちらの「押し方」で相手が変化していくという、時間軸があるところも大きな特徴だと思います。「押すことによって相手がどうなったら正解なんでしょう」とお伺いした時、クワクボさんは「自分が押し切ったらそれが正解ということでもないですよね」とおっしゃっていました。押したら必ず押し返してきて、それをこちらがさらに押し切って、論破したら終わりということでもない、と。それが印象的でした。

クワクボ:展示している3つの装置は、最終的にはどれも「いい関係」になるように設計してはいるんです。ここで僕が考えている「いい関係」というのは、「押し切る」ということではなくて、お互いが同じ強さで押したり押されたりする、すごく流動的な関係になるということなんです。その状態は触っていても心地いいので、それを一つの指標にしています。
実際の人と人との関係性を考えても、何かロジックやイベントで勝ったということは、一方にとっては「成功」という感覚かもしれませんが、もう一方からしたら、それは必ずしも良いコミュニケーションではないかもしれない。「合意」や「論破」ではなく「行き来する」という流動性を、ひとつの価値基準にしているという感じですね。

渡邊:触り方の順番というか、最初に詰め寄ると反発されるけれど、ゆっくり行くとうまくやわらかい関係になれたりするという、時間軸というより「物語」みたいなものをつくっているんですかね。普段の生活の中でも、普通に行くとめっちゃ怖い人だけど、違うところから行くと違う関わり方ができる、というようなこともあります。それが「人らしさ」みたいなところにすごく関わっていると思いましたね。

クワクボ:展示の関係上、しばらく放っておくと装置は元の状態に戻ってしまうんですが、実際の人との関係のように、不可逆な関係というか、一度このルートを辿ったらもう「この人と僕はこうだ」と決定的に変わってしまうという風にできるとまた面白いですね。

渡邊:防衛ラインを一度超えてしまうと、もう二度とそのルートを進めない...みたいな。

クワクボ:あと、一度関係がこじれてしまうと、ほぐすのには時間がかかる...みたいな。やっぱり、人との関係はUNDOが効かないものですよね。


《じぶんたぶんにぶんふかぶん》で試みた自己と他者の協働

樋泉:今回、クワクボさんには《おしくら問答》の他にもう一点、作品を制作していただきました。こちらも映像をご覧いただきましょう。

(以下、前掲の映像内での作品の解説)
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クワクボ:この作品は、「こっくりさん」がモデルになっています。僕が教員を務めている情報科学芸術大学院大学[IAMAS]で、担当学生の北詰和成さんという方がAIを使った作品を制作していたんですが、彼との対話の中で、AIと協調/協働する時に「こっくりさん」の仕組みがあり得るんじゃないかという話があって。彼自身も一度挑戦していて、僕もそのことに興味があったんです。

展示空間にはテーブルがあり、そこに円盤のようなものがあり、それに指を乗せます。すると、文字が選ばれていきます。この円盤は、ジョイスティックのようなものなんですが、力をかけすぎると止まってしまい、力を抜かないと動かないようになっています。

(AIによって)リコメンドされている文字が実はあって、それと自分が選ぼうとするものの引っ張り合いになるので、指を乗せて、力を抜いた状態でいると、リコメンドされたものをどんどん選んでいくので、そのプログラムが出してきた提案に近い文章になります。ただ、自分が微妙な加減で力を加えているような状態になると、自分が選んでいるかもしれないという...。自分が選んだのか、自分が選んではいないのかという意志決定に関して、評価が非常に難しくなります。自分の自由意志がどれだけここに反映されているのかわからなくなり、できあがった文章は誰が書いたのか、ということになります。
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クワクボ:これは《じぶんたぶんにぶんふかぶん》というふざけたタイトルなんですが、意図としては、「じぶん」と「たぶん」、つまり自分ではない、コンピュータ側のアルゴリズムが、実は「にぶん」できないような状況をつくるということです。
携帯電話で文章を打つと、予測変換がどんどん出てきますよね。その予測変換に頼って書いた文章は果たして「自分の」文章なのだろうか...というような、日常にも見られるコンピュータと人間の協働というものをもう少しミクロなレベルで体験したかったんです。

渡邊:作品を体験している最中はどんな気分になるんですか。

クワクボ:これがですね、円盤の上に指を乗せて、前後左右に少し動かせるんですが、あまり強く動かすとブレーキがかかってしまうんです。指を乗せている時のちょっとしたバランスの違いを捉えるので、「自分が動かした」という確信が微妙にあるような、ないような感じなんですね。それでいて、コンピュータの方でも選びたい文字があるので、そっちに引っ張られたりするのですが、結果が自分の力のせいなのか、コンピュータが引っ張ったものなのかよくわからない、そういうところを狙っているんです。
先日樋泉さんが体験した時には「いちりんしゃ」という完全なワードが出たので、たぶん自我をスッと抜いた状態だったんだろうと。

樋泉:意志を働かせていない状態でした。

渡邊:その場合、体験した時に「動かされた」という感じがあるんですか。「いちりんしゃ」と書かせられた、みたいな。

樋泉:何も考えずに指だけ置いてみようと思ってそうしたら、本当に「こっくりさん」みたいな感じで、スーッと動いていきました。なんでしょうね、ゲームとはまた違う感覚で、正解やゴールがわからない不思議な体験でした。

クワクボ:「点取り占い」の文章が基になっていて、それを機械学習させています。長いセンテンスになった時には、点取り占い特有の噛み合わない文章みたいなものができたりしますね。

本来の「こっくりさん」は10円玉とかに何人かの指を乗せて、その10円玉が動き出すんですが、今回は、円盤が動くんじゃなくて、画面の方を動かして、なるべく視界のほとんどが映像で覆われる感じにしました。そこに「ベクション」という移動感覚が起きて、動かしてるように感じさせるんです。渡邊さんの著作に物を動かさなくてもそういった感覚になれるという話があったので、それをヒントにしました。

渡邊:マウスカーソルを動かしている時にカーソルの動きが急に遅くなると、手に力を感じるという錯覚がありますが、今回のはその逆バージョンですね。自分が触れていて、その周りで映像が動くと、自分の手に力を感じたりします。視覚から、力や身体感覚への想像力が引き起こされるんですよね。そういう意味では、この体験って、自分が動かしてるという感覚が引き起こされやすいということだったのかな、と聞きながら思いました。

クワクボ:要は、ちょっと動かした時に、明らかに反応して動いてることが分からないと、自動で動いてるんじゃないかって思っちゃいますよね。ぎゅーって引っ張られたりすることもあります。
僕自身、「インタラクティブアート」と呼ばれるような、人が作品に対して何かアクションを起こすと作品側がリアクションしてくるようなタイプの作品をずっとつくってきたんですが、インタラクティビティが単純な反応だと先が読めてしまうんです。
今回は、そういう意味では「こうしたらこうなる」ということが常に不確実なままで、ふわふわなんです。自分がやったせいなのか、コンピュータが動かしたせいなのか、というのが常に割り切れない状態で続くようなことをやってみたかったんです。

渡邊:すごく面白いですね。”Sense of agency”、つまり自分の「主体感」がありながら、何が出てくるかわからないという状況が起こっている。「こうやろう」という自分の気持ちはあるけれど、「自分には制御できない、違うものとの関わりの中から一緒に何かを生み出す」ということが、その人の主体感を担保しつつできているという、面白い体験だなと思いました。

クワクボ:実を言うと、最初にこの作品の小さなセットを自宅で制作していたんですが、その途中で、自分が力を抜きつつコントロールするという変なモードを見出してしまって。当初の考え方では、「意志を伝える時はボタンみたいなものを自分の意志ではっきりと押す」という設計があると思っていました。ところが、その押す力が弱くなっていけば、ひょっとしたら意志とは関係ないちょっとした動きを捉えて、それを入力できるようになるんじゃないかという発想が出てきたんです。それで、とても弱い、0.01gの力をセンシングして指の動きを捉えるということをやってみたんです。
指のわずかなブレのようなものが拾われるので、「自分の意志のようでいて自分の意志ではない」という不確実な感じをつくることはできたのですが、人の小狡さというか、意志をバリバリに働かせて力を抜いた状態をつくることもできてしまう、ということもだんだんわかってきたんです。この作品は何回も体験するうちに、自分の「冷めた意志」のようなものでかなりコントロールできるかもしれません。触覚って騙せないというか。僕が意図してつくってはみたけど、その隙間でまだまだ騙されない存在というか。


「主体性」から考える多様なコミュニケーション

渡邊:今の話って、対話をしていた時の感覚と通じる気がします。最終的にはどこかに落とさなきゃいけない、ということを意識しながら、オープンディスカッションのようなことを、やわらかくやっている感じというか。
作品の最初の考え方は、人の自律性つまりオートノミー(autonomy)というか、自分の意志があって、それを相手に伝える、というイメージですよね。矢印がある感じ。その矢印が消えてしまうと、それは「自分らしくない」とか「主体性がなくなってしまう」と捉えられがちなんですが、実は、「環境の中でどうやって関わり方を自分らしく調整するか」ということが「主体性」なんじゃないかなと思ったんです。
パーソナリティと「副詞」の話と関わるかもしれませんが、「僕が自分の意志でこれをやりました」というよりは、「人との関わりをどう調整していくか」ということの方が、「自分らしさ」だったり「自律性」を捉える時には必要なんじゃないかなと思います。原因や意志について考えてしまうと永遠にそれは決まらない。「自分がやった」かどうかは絶対に分からないというか。そういう「自分らしくまわりと関係を調整する/できる」ということ自体が、今回の制作のテーマになっているなぁと、クワクボさんの両方の作品を見て思いました。

クワクボ:昔、オーストリアで鉄道に乗っていた時のことなんですが、車両と車両の間が手動ドアなんです。ボタンがあって、それを押すと開くようなんですが、僕がカチカチって押しても開かなくて。でも現地の乗客がそこを通りかかって、バーン!って押したら、ガーン!って開いたんです。僕が予想していた押し加減を遥かに超えた、すごい強い意志で押さないと開かないように設計されているんですね。「ドイツ語圏きたー!」って(笑)、すごく感動した覚えがあって。日本だとフェザータッチみたいなことでやろうとするじゃないですか。そういうことがはっきりと設計に反映されてるんだなって思いました。

渡邊:モノの設計がマインドセットと一緒になっているってことですね。

クワクボ:「そんなあやふやなことで開けられちゃ困る」みたいな。

渡邊:「お前、押したいのか押したくないのか」行動で証明しろってことですね。

クワクボ:今回の「こっくりさん」の作品は、常にそのボタンのことが頭にあって。カチっと押した感覚と、そうではない、実用上の入力デバイスではそんなことがあったら困るような感覚と。

渡邊:「開ける/開けない」の二択だとそうなるんですよね。時間をかけて関係性をつくる時の「いいですか?」みたいな感じのやりとりは、日本だからかもしれないですが、日々の暮らしの中でもそういう感覚があるなと思います。

樋泉:お二人の対話の中で、クワクボさんのご発言だと思うのですが、主張をまっすぐにぶつけると、ぶつけられた側はそれと同じ力で返さざるを得ないから、それでは良い関係性が生まれないのではないか、というお話がありました。猫が斜めから近づいてくるみたいに、ちょっと違う方向から入っていくのがいいんじゃないかと。一方渡邊さんは、人との対話の時に30度ずらした返答をするとおっしゃっていましたね。

渡邊:そうですね。普段、同僚やいろいろな人と話をする時に、聞かれたことに対して必ず微妙にズレた答えをするんです。嫌なやつだと思われているかもしれないんですけど(笑)。
「これって、こういうようなことですかね?」という言い方をすると、ガシャン!と衝突するのではなくて、斜めと斜めの関係で、ちょっとずつずらしながら「それってこういうことかもしれませんね」という話ができる。少し角度をずらさないと物事が進まない、そういうことを日々経験するんですが、それは反発をそのまま返さないとか、時間遅れで返すとか、そういった触覚的な身体感覚にも通じるものがあるんですね。

クワクボ:他の言語圏だとどういう差異があるかって興味ありますよね。

渡邊:京都大学の人類学者の木村大治先生がおっしゃっていたんですが、アフリカのコンゴ共和国の村で「ボナンゴ(投擲的発話)」という、独り言をめっちゃ大きな声で言う習慣があるらしいんですね。独り言をバーン!と投げても、特に誰もキャッチしない。投げ続けて、誰も受け取らないんだけど、それも良し、みたいな感じ。日本だと公共の場で独り言を言っていたら変な人だと思われるでしょうが、向こうだと普通のこととして認識される。それぞれがそれぞれの状況を発信している。受け取ってはいるけど、リアクションはしない。だけど、次にどこかで何かがある時には、関わるきっかけになったりする。

クワクボ:独り言ではあるけども、公共性が少しあるっていうことですね。

渡邊:そうです。ヨーロッパだとパブリックスピーチという文化がありますよね。公園に行くと「今必要な政治はこうだ!」みたいなことをしゃべっている人がいますよね。誰かが何か表明して、受け手もそれに対して何か言う。当たり前と捉えるかは文化によって全然違うと思います。

クワクボ:面白いですね。OSで言うと、環境変数みたいな感じ。いつ拾われるかわからないけど、いつでも参照できるように置いてある、みたいな。場に置いていく、みたいな感じなのかな。

渡邊:出力したものがすぐ関数のインプットにならない感じですね。すごく時間遅れのあるルーティンが回っているみたいな感じかもしれないですけど。

クワクボ:そういうコミュニケーションがあるということを想像していませんでした。

渡邊:日本では独り言を言うと「何言ってんだろう」という顔で見られるけれど、「それはそれで」という国もある。ボナンゴのように、特定の相手に向けずに言葉を投げつけるようなことをする人たちもいるっていう。相手にすぐ言葉を返すということが、必ずしも普通ではないっていうことだと思うんですよね。

クワクボ:そうなると「押しつ押されつ」みたいなこととは全然違いますね。

渡邊:全然違います。たとえば、今の装置でいうと、押したら壁が動いたり、天井が落ちてきたり、とんでもないボールが転がってきたりとかでしょうか。

クワクボ:どちらかというと、スプレーみたいなイメージです。シュッ!て。

渡邊:なるほど匂いですか。ボナンゴは嗅覚的なコミュニケーションかもしれないですね。

クワクボ:そういう残り香みたいな感じで記憶されていたりすると面白いですね。「俺も聞いた」みたいな感じになるというか。

渡邊:そうです、そうです。ブロードキャストされてるので、半径30mぐらいの範囲にいた人たちは「誰かそんなことを言ってたなぁ」という程度のことを記憶する。すぐに助けに行ったり、何かをするわけじゃない。そこが興味深いですね。

クワクボ:生きている空間的な環境も、それを成立させる重要な要素なんですかね。

渡邊:確かに。彼らが生きているのが草原だからかもしれません。

クワクボ:全方向なんですね。

渡邊:Peer to Peer(ピアツーピア)というよりは、まさに空中にばらまく感じに近いと思います。「拡散問答」みたいな。誰かが時間遅れで拾うってことですよね。


制作のプロセスを通じて見えたふたりの共通点

樋泉:さて、あっという間にお時間がきてしまいました。参加者の方からご質問をいただいていますのでひとつご紹介させてください。「共同の作品をお二人で制作する中で、お互いにアーティストと研究者として似ている部分、完全に固有の部分を感じたところはありますか」というご質問です。

クワクボ:似ているところと言うと、渡邊さんとは15年来の知り合いなので、研究者であり作品のようなものをつくっている人ということは知っているわけです。身体表現や音楽で表現している人というわけではなくて、「何か考えてモノをつくる」という、僕がやっていることとかなり近いことをしている人だということは少なくともわかっているので、共通性があるという認識は先にありましたね。

渡邊:今回のように、いろんな判断を留保しながら、いろんなやり取りをするということができたのは、少なくとも何らかの共通性があったからかと。研究者にも2パターンいて何より仮説ありきで実験をする人もいれば、いろいろやりながら感覚的に仮説を引き出していくような人もいます。僕はどちらかというと後者ですね。研究者とアーティストと言うよりは、物事の考え方とか、進め方がすごく似ていると僕は感じました。

クワクボ:「アブダクション(仮説形成、仮説的推論)」、ですね。

渡邊:たぶん僕がいろんなものを見たり感じたりしていることを通して出てきた言葉と、クワクボさんが見たり感じたりして出てきた言葉の背景には、もしかしたら共通のものがあるかもしれないと思いました。そこをどう推測するかということがすごく面白い。星を見て「どんな星座になるんだろう」と読み解く過程を一緒に楽しくたどれることが大事かなと思います。

クワクボ:今の渡邊さんの説明で、自分でも言いたかったことがわかったんですが、要は「考えながらつくる」という、その行き来をアブダクション的にやる人には、信頼と共感があるんですよね。モノをつくることには実はいろんなノイズがあって、今回もそうですが、思っていたものとは違うものにはなるんです。「世の中、外界ってそんなもんだよな」ということを織り込み済みでやりとりしていくことは、モノをつくる人が持っている、特有のセンスなのではないかと思います。

樋泉:まだまだお話を聞きしたいのですが、お二人の「おしくら問答」は、今回で一応の「最終回」となります。また別の機会に、お二人の問答がお聞きできると嬉しいなと思います。クワクボさん、渡邊さん、本当にありがとうございました!

「クワクボリョウタと渡邊淳司の《おしくら問答》」は下記よりご覧いただけます。
PDF(8.54MB / 12ページ)

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