ここから本文です。
コラム
オペラ公演がより楽しみになる、
さまざまなコラムをご紹介!
男女共同参画社会を見据えていた!
モーツァルトのオペラとその魅力
香原斗志(オペラ評論家)
男女共同参画社会が目指されています。どういう社会かというと、独立行政法人「国立女性教育会館」のホームページには、こう書かれています。「男女が互いに人権を尊重し、『女性』や『男性』というイメージにあてはめてしまうことなく、一人ひとりが持っている個性や能力を十分に発揮できる豊かな社会のことです」。
男性中心の社会が長く続き、21世紀のいま、こうした社会に向けて、やっと歩みを進められるようになりました。それは19世紀や18世紀には想像さえできなかった社会だ、と思うでしょう。ところが、じつは18世紀に生きながら、「男女共同参画社会」を見据えていた男がいました。その名はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト。この作曲家は音楽において天才だっただけでなく、社会のなかで女性はどうあるべきか、という視点においても天才でした。
破廉恥なようで女性賛歌の《コジ・ファン・トゥッテ》
たとえば、オペラ《コジ・ファン・トゥッテ》(1790年初演)。このオペラでは、男性中心社会で生きているはずの女性たちがキラキラと輝きます。こう書くと「なにバカなことを言っているのか!」とお叱りを受けるかもしれません。というのも、このオペラは一般には、女性蔑視の破廉恥なオペラだと思われているからです。
実際、誤解されるのも仕方ない面があります。オペラの冒頭で哲学者のドン・アルフォンソは「貞節な女性などいない」と言い切り、2人の若い士官にけしかけて、ある実験をはじめます。彼らが婚約している姉妹が貞節を守るかどうかという実験です。
2人の士官は急に戦地に赴いたことにして、異国の男に変装して戻り、本来の相手ではないほうの女性を口説きます。最初のうちは姉妹ともに取りつく島がありませんが、次第に心を動かされ、しまいには口説き落とされます。
《コジ・ファン・トゥッテ》とはイタリア語で「女はみなこうしたもの」という意味。そのうえ「恋人たちの学校」という副題もつくので、どんな女性にも貞節なんてないことを学ぶ学校、という意味にも解釈できます。
しかし、「女はみなこうしたもの」とは、「女とはこんなに人間的で、すばらしい存在なんだ」という最大級の女性賛歌だと私は解釈しています。
フィオルディリージとドラベッラの姉妹は、貴族かそれに近い階級で、年齢はたぶん10代。この時代、この階級の女性にとっての結婚は、家と家を結ぶためのものだったから、彼女たちも恋愛感情など知らないまま、親が決めた婚約者をいちばんの異性と思っていたことでしょう。ところが、彼女たちの前に現れた「異国の男」たちは、身分制社会における制度としての結婚から自由な存在でした。そんな男性の前で、彼女たちはおそらくはじめて、自発的な恋愛感情をいだきます。
これまで姉妹が知らなかった生々しい感情は、こうして解き放たれ、理性でコントロールできないほど高揚します。もちろんモーツァルトは、感情が自発的に高ぶってときめいたときこそ、人間が輝く瞬間だと知っていました。女性を尊重するモーツァルトは、こうして彼女たちを輝かせたのです。
その証拠に、フィオルディリージが「異国の男」に口説き落とされる二重唱が、オペラ全体のなかでも最高に甘美。女性がほんとうの心を解き放ち、その人らしさく輝く瞬間を、モーツァルトはすこぶる美しい音楽で彩ったのです。
女人禁制なのに「共同参画」させた《魔笛》
《魔笛》ではモーツァルトはさらに踏み込んで、パミーナという女性を「共同参画」させました。
簡単に物語を紹介すると、王子タミーノは大蛇に襲われ、夜の女王に仕える3人の侍女に助けられます。そのとき女王の娘パミーナがザラストロに捕らえられていると聞いたタミーノは、彼女を救出するためにザラストロの神殿に行きます。しかし、悪者だと聞かされていたザラストロは徳が高い僧だったので、タミーノはパミーナと結ばれるために、そこで修業します。そして試練を乗り越えた2人は結ばれます。
少しややこしい話ですが、《魔笛》にはモーツァルトも会員だったフリーメイソンの世界観が反映されています。これは18世紀初頭にイギリスではじまった人道主義的な友愛団体で、そこでは数字の「3」が重視されます。だから《魔笛》には、3人の侍女をはじめ「3」という数字がたくさん登場します。タミーノが乗り越える試練もフリーメイソンの通過儀礼そのもので、その数も3つです。
そのうちの火の試練と水の試練にはパミーナも加わり、タミーノと一緒にくぐり抜けます。フリーメイソンは「人道主義的」な団体ではあっても、時代の限界から女人禁制で、女性は家にいるべきだと考え方でした。ところが《魔笛》では、タミーノは女人禁制だったこの団体の通過儀礼を、最愛の女性と一緒に乗り越えるのです。
モーツァルトはフリーメイソンの教義を《魔笛》の下敷きにしました。しかし、女性のあつかいに関しては同意できず、パミーナの「共同参画」を促しました。時代のはるか先に向けられていたモーツァルトの目線に驚かされます。
ドン・ジョヴァンニの前で心を解き放つ女性たち
それでは《ドン・ジョヴァンニ》(1787年初演)はどうでしょうか。このオペラも不滅の人気作ではありますが、昔から反道徳的だと考えられてきました。
計2065人もの女性と関係を重ねてきたジョヴァンニは、あまりにも好色な放蕩男で、まさに稀代の女たらしです。そして、自身が殺してしまった騎士長の石像に、生き方を悔い改めるように迫られても拒否します。ジョヴァンニにとって、自分の存在理由は女性を口説き落とすことにあるので、地獄に落とされようとも生き方を変えません。
片や、彼に口説かれる女性はどうでしょうか。18世紀に彼女たちが置かれていた立場の割には、みな恋愛にずいぶんと前向きです。
ジョヴァンニに父の騎士長を殺されたドンナ・アンナは、婚約者に父への復讐を誓わせながら、結婚に躊躇し続け、結局はジョヴァンニに惹かれているようにも見えます。ドンナ・エルヴィーラはジョヴァンニの性癖を知っても、復縁を求めて追いまわします。村娘のツェルリーナは自分の結婚披露宴の最中に声をかけてきたジョヴァンニに、一瞬にしてほだされてしまいます。
女性たちはジョヴァンニの被害者のようで、ジョヴァンニに惹かれ、積極的にジョヴァンニを求めているようにも見えるのです。
《ドン・ジョヴァンニ》の初演後、1年半ほどでフランス革命が起きます。しかし、この革命は人間の解放を訴えながらも、女性の解放という視点はありませんでした。革命に大きな影響をあたえたジャン=ジャック・ルソーは、「女性は家庭内の管理以外に口を出してはならず、家から出ることも許されない」を訴えています。革命を経てもなお、男性優位の社会のなかで女性の行動範囲は、家庭に限定されるべきだとされていたのです。
ところが、ジョヴァンニに声をかけられた女性たちは、家庭では許されない異性への胸の高鳴りを隠しません。彼女たちは家から外に行動範囲を広げ、「共同参画」して心を解き放ちます。モーツァルトは、女性のこうした自発的な感情こそが人間らしいのだ、と高らかに宣言しているようです。
加えれば、ジョヴァンニは口説く相手を選びません。公爵夫人から使用人や村娘まで身分を問わず、年齢も容姿も気にしません。一種の博愛主義です。
時代の制約を超越して、今日の「男女共同参画社会」にもつながる人間のあるべき姿を見据えていたモーツァルト。その世界観に浸れるのが彼のオペラで、そこでは先進性が極上の音楽で彩られています。だからモーツァルトのオペラは時代を超えて輝きを増し、鑑賞する人を虜にし続けるのです。
香原斗志/かはら・とし
音楽評論家。神奈川県生まれ。早稲田大学卒業、専攻は歴史学。イタリア・オペラなどの声楽作品を中心にクラシック音楽全般について原稿を執筆。歌声の正確な分析に定評が ある。日本ロッシーニ協会運営委員。著書に『イタリア・オペラを疑え!』『歌声のカタログ 魅惑のオペラ歌手50』(共にアルテスパブリッシング)など。毎日クラシックナビ「イタリア・オペラ名歌手カタログ」などの連載をもつ。歴史評論家の顔もあり、近著に『教養としての日本の城』(平凡社新書)。